Casa-planta世代は仕事や家事にも少し余裕が生まれ、次のステップへ進みたい、と何となく考え始める世代ではないだろうか? でも一般的には、「35歳を過ぎたら転職は一気に難しくなる」などと言われるし、そもそも「何をやりたいのかも分からない……」という声も多い。そんな流れに逆らって、36歳でCAから写真家という未知の世界に転身した在本彌生さん。その転身の経緯と、現在、そしてこれからへの思いを伺った。どんな状況でも“好き”は見つけられるし、何歳からでも転機は掴み取れる。そう勇気づけられる話がいっぱいだ。

在本彌生 1970年生まれ。東京都出身。アリタリア航空の客室乗務員として勤務しているときに写真と出会い、2006年に独立。多数の雑誌やカタログ、CDジャケットなどの撮影をおこなう。写真集に『』(アートビートパブリッシャーズ)、『』(青幻舎)、『』(小学館)がある。


「イタリアに呼ばれている!」とCAに

雑誌やWEBの撮影に引っ張りだこなのはもちろん、自身の写真集を3冊出版している在本彌生さん。こう言うと本人は否定するが、その活躍ぶりは、写真家として“成功を収めている”と言っていいだろう。しかし驚くことに、その経歴はまだ11年と短い。在本さんは大学を卒業してから14年間、アリタリア航空のCAとして働いていたからだ。まったく違う畑への転身について伺う前に、まずはCAになった理由を教えてもらった。

もともと旅が好きで、今では東京にいるのは1年の3分の1程度だという。

「父が船会社を経営していたこともあって、もともと旅に興味があったんです。小学校卒業のときの“将来の夢”では、『世界を駆け抜けるジャーナリストになりたい』と言っていたんですよ。ある意味、実現したと言えるかもしれませんね(笑)。
 アリタリアに就職したのは、特にイタリアに憧れていたから。大学生のときに『ニューシネマパラダイス』を観て、「イタリアに呼ばれている!」と思ったんです(笑)。それで、何でもいいからイタリアに行ける仕事を探して。ベネトン、ノルディカ、旅行会社、イタリアの製薬会社……、その中の一つがアリタリア航空でした」


CAの仕事はとにかく面白く、「素晴らしい時間だった」と言う。

「当時のフライト先は、ローマ、ミラノ、モスクワ、デリーの4都市。憧れていたイタリアには月に2、3回行ける生活だったし、フライトスケジュールも今ほどタイトではなかったので、それぞれの都市での時間も堪能することができたんです。スタッフには他に若い日本人がいなかったから、イタリア語もぐんぐん上達しましたし、何より急に大人の仲間に入れてもらえて、刺激的で楽しくてたまらなくて。最初の5年ぐらいは、それでどんどん過ぎていった感じです」

2006年に出版された写真集『』の表紙にも使われた一枚。フランス、ベルサイユで撮ったもので、絶妙なピンのブレ具合は、撮った瞬間「イケた」と感じたそう。「プリントも難しく苦労して作り上げたので、思い入れが強い一枚です」(在本さん)

当時のCAは、航空会社によっては5年契約など一つの区切りがあったため、在本さんの中でも何となく「5年たったら一区切り」という思いがあったという。しかし実際は、5年経ったからといって大きな変化があったわけではなく、これまでと同じ毎日が過ぎていくだけだった。

「CAという仕事は、人が決めたスケジュールに乗って動くもので、自分では変えることができません。もちろんそこにきちんと乗っかってさえいれば、お給料が入ってきて生活に困ることはないけれど、『この調子であっという間に20年くらい過ぎちゃうな』という気がしてきたんですよね。しかもCAはサービス業だから、“お客さんが喜んでくれる”という積み重ねはあるけど、それが形として残るわけではない。だから続けていくにしても、傍らで何か形に残ることをしよう、と考えたんです」


写真との出会い、のめり込んでいく……

静かな口調と澄んだ雰囲気が印象的。あれだけ力強い写真を撮る人とは、到底見えない。

 そこからは、とにかく様々なことを試した。日記をつけてみたり、絵画の通信教育を受けてみたり……。が、どれも今ひとつハマれなかったという。

「そんなときたまたま、常連のお客さんから『せっかくいろんな場所に行く仕事なんだから、写真を撮ったらいいよ』と勧められたんです。それだけなら、『そうですね』で終わっていたと思うんですけど、そのお客さんが『今なら新橋のウツキカメラがセールをしていて、ティアラのコンパクトカメラが28000円で買えるから』と、妙に具体的な情報まで教えてくれて(笑)。実は写真も、“形に残る趣味”候補の一つではあったんです。でも、スマホでいろいろ撮れる今と違って、当時は、そこそこ良いカメラを買うとなると『ボーナスまで待たなきゃ』というような時代。気軽には手を出せずにいたんですけど、具体的な値段まで教えてくれたから、それなら……と。そこから私の写真人生が始まったんです」

とはいえ決してあっという間に夢中になったわけではなく、最初は、1本のフィルムで1ヶ月もつくらいの撮影ペースだったという。そこへ、たまたま知人から「古いライカを譲りたい」という話があった。そこから本格的に撮影の面白さにハマり始め、何と自分で暗室まで作ってしまったのだそう!

「そうやって2、3年は夢中で撮り続けていたんですけど、だんだん撮ったものをシェアしたいと思うようになって。そのためには誰かしら人のいるところに行かなきゃ、と思って機会を探っていたときに、たまたま行った映画館で写真のワークショップの募集が出ていたんです。そこに参加してから、大きく変わりましたね。やはり人に見せる、意見をもらう、というのはモチベーションの高まり方が違う。どんどん写真にのめり込んでいったし、人脈も広がって。それで33歳のときに初めて個展の話をいただいたんですよ。そうしたら、それを見た雑誌の編集者が声をかけてくれて、撮影のお仕事をいただくようになっていったんです」


転身は簡単なことではなかった

「スマホがある時代だったら写真家になっていなかったかもしれない」と振り返る。

 撮影スケジュールは、フライトがない日に入れたり、休暇をとるなどしてやり繰りしていた。そうして3年、兼業状態で頑張ったが、仕事依頼はどんどん増えていく一方。あるとき、「もうこれは無理だな」と、ようやく会社を辞めることを決意したという。だが聞いていると、もっと早く辞めても良かったのでは?という印象が拭えなかったのだが……。

「何せ14年間も会社員をやってきましたからね。ずっと享受してきた安定の月給生活から不安定なフリーランスになって精神的に耐えられるか、私にはその自信がないな、と思って決心できなかったんです。辞めた後も、ずっと不安でしたよ。今、11年経ちましたが、不安定な生活に慣れたのは本当にここ1年くらい。それまでは『5年何とかなった』、『10年何とかなった』と綱渡りな気持ちでいっぱいでした。『好きなことがあったら思い切って飛び込むべき』という声もありますが、いざ直面してみると、安定した生活を捨てるということはそんなに簡単なことではないですよ」

 世間の感覚においては、36歳という年齢は、何かのスタートを切るには非常に遅いと言えるだろう。そこからの転身を果たした在本さんだけに、「簡単ではない」という言葉には半端ではない重みがあった。

「でももしかしたら、今の時代だったらもう少し気軽に、早く動けていたのかもしれません。『写真をシェアしたい』と思ったときもそうですけど、今だったらインスタグラムに挙げればいいし、ワークショップのような場もネット検索ですぐ見つけることができます。でも当時は、そういう募集が出ていそうな場に足を運んで、見つけたら写真ブックを作ってそれを送って……とやらなければいけなかった。相当、心が固まってないと動けないですよね。だからこんなに時間がかかってしまったとも言えるし、生半可な決意じゃなかったからここまで来られた、とも言えるのかもしれませんね」

 今は、ある意味自分の熱量を確認しにくい時代だからこそ、その見極めはより重要になってくるだろう。それでも自分から動いてさえいけば、何歳だろうと、経験値が少なかろうと、世界を広げることはできる。そう勇気づけられるお話だった。

 

<新刊紹介>

写真・在本彌生 文・村岡俊也
¥2300 小学館

文化功労賞受賞者で、その作品はスミソニアン博物館にも展示されるなど、国内外で高い評価を受けているアイヌの木彫り家・藤戸竹喜さんと、彼の作品を撮り収めた一冊。藤戸さんの精緻で温かみある作品、阿寒湖畔の大自然、そして精霊のような澄み切った藤戸さんの姿を、ありのままに捉えている。アイヌの木彫り文化が樹立されるまでの葛藤の歴史を綴った文も読み応えがあり、心に刺さる一冊だ。
 

撮影/塩谷哲平(t.cube) 取材・文/山本奈緒子