「夏が死んだんだな」
今朝窓を開けて、当たった風の変化でそう思ったのです。さらりと涼やかな空気が気持ち良く、つい数日前までの終わりそうになかった夏のエネルギーが、すっかり姿を消してしまいました。

 

この夏も仕事で本当にあちこちに飛び回っていました。まあ、それは今更始まったことではなくて、ひとところに落ち着かない日々が四半世紀以上続いているので、移動は自分に課された使命みたいなものなのです。その移動と滞在の連続の生活の中で学ぶことも多かったり、そのせいで荷造りが得意になったりするのですが、一方で置き土産(要するに忘れ物)も多く、「あそこに〇〇を置いてきたんだよねー」というのがちょっと笑えるエピソードになったりします。

例えば、毎日のように宿を移ったイベリア地方の長期ドサ回り出張でのこと。同室だった女性編集者と私、2人して毎日洗濯をしては部屋に干していたのですが、ある朝疲れ果てて2人とも寝坊し、予約した列車の出発に遅れそうになったのでした。慌てて荷物をまとめて、最後に部屋全体を見渡し、忘れ物チェックもしました。無事に列車に間に合ってホッと一息ついた時「あ、もしかして、私たち夕方バルコニーに干したパンツ、忘れてきたーーーー。」外に干した方が早く乾くだろうと気を利かせたのが仇になったのでした。それにしても2人分のパンツ4枚が置き去りにされた安宿のバルコニーを想像するだけで可笑しいものです。

 

常に洗濯前提で最低限の着替えしか出張に持ち歩かないので、こういう時は片田舎のスーパーで面白い下着を調達することになるのです。パリの朝の市場でエクアドルから来た人が売っていたパナマ帽子をとても気に入って、喜んでかぶっていたら、その日の午後に移動した電車の中に置いてきたこともありました。取りに帰るために引き返すこともできず、、、その悔しさと言ったらなくて、もしもあの時ちゃんと確認していたら、と半日くらいグダグダと後悔しました。

こうして何かを置き忘れて来ることを繰り返すと、次からは忘れないように、と少しは戒めにしなくては反省がありません。でも、帽子に関していうならば、この夏は置き忘れて来ることは無く、春から夏にかけていつも一緒に一つの帽子と方々を旅していました。多分この数ヶ月、家族よりも一番多く私の近くにいた存在です。5ヶ月のヘビーデューティーを経て、内側に貼られたリボンもすっかり汚れ、外側にまで汗染みができてしまったのですが、これも私の軌跡だなあと思ってみたり。

 

当初パリッとしていた姿も少し腰が抜けてきていたので、リボンの付け替えとノリのかけ直しをお願いしてきました。今はメンテナンスの療養中なので、これからでかける出張には別の帽子を持ってきましたが、なんと無くあのいつも一緒だった帽子がいなくて物足りない気さえしています。

愛着は自らの汗と共に育つもの、なのかしら。東京に戻った頃にはお直し完了、あの帽子と次はどこに行くのでしょう。