タイトルは、最近、私の高校の同級生のおすすめで読んだ本、鴻上向史さんの『』よりです。

 

ミモレ大学を開催している関係で、国内の私大を視察訪問する機会がありました。そこで面白いなあと思ったのは、最近いくつかの大学は、大教室を改装して、グループワークができるような小さめの教室に分割し、座席を動かせる一人ずつの席へ変更しているというお話です。

 

私たち(と、ひとまとめに言っていいかわかりませんが)のころの大学の教室といえば、3~5人分くらいの席が一列になった固定のイスとテーブルのセットが並んだ大きな“階段教室”が多くなかったですか? 

 

なぜグループワークができる小教室を増やしているかというと、(少子化もあるでしょうが)欧米的なアウトプットの多い授業の需要が増えているからだそうなんです。一方的に教授や講師の話を聞くだけじゃなくて、そのテーマについて生徒が考えたことや調べたことを自分の言葉で発信すること、あるいはほかの人の意見を聞き出して議論をすること、そんな能力を伸ばすことが教育の現場で求められてきているそう。それは大学だけじゃなく、もっと低年齢から育まれるべきこととして、日本の教育の在り方も変わってきているんですね。

それを聞いて、すごくいい傾向だなあと思う一方で、自分だったらうまくやれたかなあという不安が(大汗)。

私は、どちらかというとガリ勉タイプだったので、コツコツと積み上げた勉強量でテストの点数などはクリアできますが、“プレゼン上手”なタイプではありませんでした。

私大の教室改修の話を聞いて、プレゼン上手やグループディスカッションを上手に回せるコミュニケーション上手が増えるのは日本の社会にとっていいことだけど、ガリ勉タイプでコミュニケーションが苦手な子が、肩身の狭い、精神的にしんどい思いをしないといいなあととても心配になりました。

そんな話を自分の高校の部活の同級生に話したら、「私ももっと早くこの本を読めばよかったと思ったよ」とおすすめしてもらったのが『』なんです。

この本の中で

コミュニケイションが下手なことは、あなたの人格となんの関係もありません。

と繰り返し語られていました。

その指摘にすごく救われました。

プレゼン上手、自分の意見を通すのが上手、グループディスカッションを回すのが上手なタイプは子どものときからいますね。下手なタイプもいます。そして大人になって、仕事でも、保護者会や趣味のサークルやマンションの理事会や……いろんなところでその上手い下手に直面するわけです。

でも、そういうのが上手くできないからといって、人格まで卑下する必要はない、コミュニケイションが下手なことと、怯えて避けることは違う、と鴻上さんは言います。

スポーツとコミュニケイションは似ていて、得意じゃなくても怯えて避けなければ、確実にある程度上達はする。

そして、「情報を伝える」ということと「感情やイメージを伝える」ということはぜんぜん違っていて、どっちが得意ならどっちが優位ということでもないとこの本にあり、とても納得しました。

例えば、「情報を伝えること」が得意な人は大きな会社で出世しやすいかもしれない。でも「感情やイメージを伝えること」が得意な人が成功できないわけじゃないですよね。両方伝えることを意識することがコミュニケイション

「世間」と「社会」は違う。それぞれに折り合わなくとも、自分がコミュニケイションを取りたい相手が「世間」(比較的小さなコミュニティ)に生きているのか「社会」(広義の倫理や正義)に生きているかを考察せよ、と。

そういったことをこの本ではレッスン形式で解説。自分のやりがちな思考を分類したり意識したりすることを迫られて、無意識に避けてきた苦手なことや人がクリアに。一方で、自分のできていることや大事にしたいことを再認識できます。

これからの教育現場はもっとアウトプット重視になっていって、私たちの子どものころとはさま変わりしていくのかもしれません。でも、コツコツタイプの子が、人格までダメだと自己否定しないように、苦手は苦手なりにトレーニングで補強しつつ、別のところで評価される社会の仕組みであるといいなあと思いました。

ではではまた〜。